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視ることの魔

プロ・スポーツの世界を愉しむ方法

 沢木耕太郎いわく、プロ・スポーツの世界で、大事なことは闘う者にとってはいかに勝つか、視る者にとってはいかに愉しむかであるそうだ。

 スポーツを愉しむためには知識や想像力が必要である。しかし、それ以上に大きな力を持つのは、「思い込み」である。

 またスポーツは視ることより、闘うことのほうが面白いに決まっていると言っている。

 彼が言う通りプロ・スポーツに限らず、視る者より行う者のほうが面白いのはわたしの経験上でも確かだ。第三者として取材や編集することが是となる世界ではあるが、いつでも主役になれるように意識すべきことなのかもしれない。

 

できるかぎり当事者に近づく

 彼はプロ・スポーツの世界を描くために、できるかぎり当事者に近づく手法をとった。それは単に物理的な距離をつめることではない。

 彼は競馬の取材で、以下のように当事者へ近づいたそうだ。

 東京競馬場に住み込んだ。若い馬丁さんの部屋に寝起きさせてもらい、共に朝の三時頃から馬の世話をした。三流、四流の父母の間に生まれてきたイシノヒカルという馬が、名門名血を相手にどこまで闘うか、ダービーという晴れの舞台の「その時」までを見つづけたいと思ったのだ。私が馬房に行くと鼻面を寄せてくるまでになったイシノヒカルは、しかしロングエースランドプリンスタイテエムといった関西の名血馬に敗れてしまう。

 

視ることの魔

 ヘビー級の世界タイトルマッチがスリリングなのは、敗者の失うものがチャンピオン・ベルトやファイトマネーだけではなく、もっと大きな何かであることを視る者がよく知っているからである。

 「視る」者としての私が、「闘い」つづけた者としてのメデルに、何がいえるあろう。黙って、その姿を見送ることが、わずかにできるにすぎない。

 なぜなら、それこそが、命を賭けることなく「魔」の時を味わおうとした者が甘んじて受けなければならぬ、罰なのだろうから。

 

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 「視ることの魔」は意識すべきだ。闘う者でないのにもかかわらず、視る者が闘うものを笑うことは恥ずかしい行為だ。

 彼は見送ることしかできないと言い、視る者が甘んじて受けなければならない罰とも言っている。どんなにおかしかったとしても、笑うことはできないだろう。同じ場所で闘っている者同士でしか笑う資格はないだろう。

路上の視野〈1〉紙のライオン (文春文庫)

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