ネットのライオン

よく読み よく書く

なぜ「わたしら」を書くのか

「あなたは」はなぜ「わたしら」を書こうとするのか。

 沢木耕太郎は取材している時に、取材される側の人からこのような問いがなげかけられることがあるそうだ。なぜ書くのか。

 食うためには仕方がないのだ、と開き直らないかぎり、誰にとっても「書かなくてはならない」ということが暗黙の前提として許されてはいないという。

 

取材する者とされる者の間の越えがたい溝

 彼は森崎和江の「からゆきさん」の中で取材する者とされる者の間の越えがたい溝は宿命的なものである。これほど端的に表現された例を知らないと書かれた。

 たとえば、それは以下のような場面で感じたようだ。

 娼婦は人を愛することも、子を産むこともゆるされないで男に接してきた。産めないまま終わるかなしさを、ある人は生きているうちに自分の墓をこしらえて慰めていた。なぜお墓を、とたずねたわたしに、

 「子どもを産みなさったおなごさんにお話ししても……」と口ごもった

 

---

 英語ではWhyである「なぜ」という根源的な質問は軽々しい答えで良いなら簡単にひねり出すことができる。しかし、文章を書く商売をしているものにとってそう簡単に答えを出すことはできないのではないか。

 あなたはなぜ書くのか。

 わたしもなぜ「ネットのライオン」など評して書き始めたのか。

 意味ある読書と掲げて、書き始めて見たところでただの書評と変わりなく、読書感想文でしかない。ネットに下手な感想文を書くことは読んだ本の価値を陥れるのではないか。

 書けば書くほどそんな気がしてくる。一つのことを続ければ続けるほど嫌気がさし、続けていた情熱を忘れてしまう。思うに根源的な問いへは、具体的ではなく観念的な答えがなければ継続することはできないのではないかと思った。

 つまるところ本サイトも今はまだ具体的な問いしかないため、続く見込みがないということだ。

路上の視野〈1〉紙のライオン (文春文庫)

路上の視野〈1〉紙のライオン (文春文庫)