ニュージャーナリズムについて
ニュージャーナリズム作品に共通する志向
本章で沢木耕太郎がニュージャーナリズムの作品と見なしうるのは、汝の父を敬え〈上〉 (新潮文庫)、ベスト&ブライテスト〈上〉栄光と興奮に憑かれて (Nigensha Simultaneous World Issues)、最後の日々―続・大統領の陰謀〈上・下〉 (1980年) (文春文庫)の三作と言っている。
三作に共通する志向として以下の二点を上げている。
- 「全体」への意思
- 「細部」への執着
「全体」への意思とは、事件や人物の断片的な報告ではなく、ひとつの世界を現前させること。
「細部」への執着とは、固有名詞や日付といったものばかりではなく、風景、天候、建物、部屋の内装、家具、人物の表情、服装、口調、視線、煙草の吸い方、酒の飲み方といった、およそ犯罪捜査の係官くらいしか関心を抱きそうもない細部に、強い執着を示すこと。
ニュージャーナリズム作品は、「全体」への意思と「細部」への執着という相反するかに見える二つの志向を合わせ持っているそうだ。
シーンを描き、細部を全体へと広げる
彼によると、シーンを描くとは人と人あるいは物と物とが絡み合い言葉やエネルギーが交錯することで生じる「場」を、ひとつの生命体として描くことだそうだ。
シーンを描くことにより、細部が全体化される。しかし、シーンは一人称でしか書けない。
「見てきたようなウソを書く」と非難されるため、ニュージャーナリストたちは徹底的な取材により、「見てきたようなホントを書く」ことが不可能ではないと考える。
書き手がシーンを手に入れる条件
- 体験
- 取材
- 想像力
上記の3点であるが、想像力はあくまで取材を推進させるバネとしてのみ行使されなくてはならない。
ニュージャーナリズムには「今」が必要
彼曰く、「いま」の雑多な対象に、日間にぶつかり、「いま」に添い寝をし、「いま」を書く必要がある。
日本のニュージャーナリズム的と呼ばれる作品は「いま」を描くということが欠落しており、過去の完結したものを好んで扱われてしまっている言っている。
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日本のニュージャーナリズムの旗手と呼ばれた彼の論考はとても参考になる。Wikipediaのニュー・ジャーナリズムを読んだけでは決して理解できないだろう。
日本で本当のニュージャーナリズムを行うには、問題点もいくつかあるようだ。別の章で彼がその理由を話されている。本章と別の章を読むことでニュージャーナリズムについて理解が深まるはずだ。
わたしの書く文章にはシナリオ性が足りないと思ったが、シーンが足りないだけなのかもしれない。なるべく短い文章で、相手を文章へ引き込むすべを身につけたいと思う。
意識して書き続けることが一番の近道なのかもしれない。
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