可能性としてのノンフィクション 自作を語る
シーンを書く2つの方法
- 自分が見たものなら「シーン」を書けるということ
- 人から聞いて、「シーン」を構成するということ
古典的なノンフィクションなら、A子さんによればこれこれこうだった。B男はこういう行動をとったと言われる、といった書き方になる。
三人称の話法をとるニュージャーナリズムのライターは、A子はこう思った、B男はこうしたと言い切ってしまう。
フィクションだけれども、幾つかの取材によってそれが事実と証明されれば、A子はこういったと描いてもいいんじゃないかと考えたようだ。
ところが、この手法には偽造記事の問題がある。取材源が叙述の中で全部塗りつぶされてしまい、取材された結果だけが羅列されてしまうからだ。書く当人にすごく厳しい倫理観がないと、歯止めのない泥沼のような偽造、変造の文章が出てきてしまう。
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沢木耕太郎が書いた作品からノンフィクションの可能性を書かれている。彼はニュージャーナリズムを研究した上で、偽造をしてしまう問題点を避けるために物語の一人称になることを選んでいるようだ。
彼の選んだ方法をみるに、わたしはニュージャーナリズムという手法をとりつづけるような厳しい倫理観を持った者は存在しないのではないかと考えた。
近年、フリージャーナリストによる真実を偽造した本が出回っており問題にされている。この問題から考えるに、厳しい倫理観を持ち続けることは無理だ。ただ事実を掲載することすらできないのに、三人称の話法を取りながら事実なみだけを掲載することは無理だろう。
- 作者: 沢木耕太郎
- 出版社/メーカー: 文藝春秋
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